| ◆03月27日 |
 |
登録→交渉→即会える!!出会いたい方必見の出会える出会い系サイトは即アポオーライで決まり!!出遅れるな♪ |
| ◆03月27日 |
 |
恋人・ベストフレンド探しを支援! |
|
 |
|
今週号からスタートする「ナイスポ特捜隊」では、記者が世界中を駆けずり回って徹底取材。役に立つ情報やおもしろい情報など、エロ〜んな情報をみなさんにお届けします。「秋と言えば勉強の秋」というわけで、第1回のテーマは「風俗日本史」。新宿2丁目にある(?) ナイスポ大学風俗学部日本史学科の授業をそのままお伝えします。みなさんシコシコ勉強してくださいね〜。
|1ページ|2ページ|
◆古代〜奈良時代(710年頃〜794年) −日本で最初の風俗嬢は巫女さん−
みなさん非常に驚かれるかもしれませんが、日本における、そのルーツはなんと「巫女」さんなのです。巫女さんと言っても現在のような神社のいわゆる巫女ではなく、原始的シャーマニズムの依り代といったところ。巫女さんは、神がかりの状態になって、神さまの言葉を伝えることができる預言者。男性たちは、その巫女さんと交わることで神さまと交信できるものだと信じていました。ですから当時、当然ながら巫女さんは、神聖な存在としてあがめられていました。巫女さんから生まれてきた子供はみなで共有して育てられたり、跡取りのいない家の跡継ぎとなったりしました。
奈良時代に入ると、宗教的な意義の薄れた、いわゆる売春を行なう巫女が現れました。「遊行女婦(うかれめ)」と呼ばれる彼女たちが、日本における、その原型です。彼女たちは各地を回り、売春や祭祀を行なうと同時に歌や踊りなども披露しました。万葉集に歌を残した才女もいたようです。
◆平安時代(794年〜1185年頃) −港で乗船客を誘う遊女−
平安時代には、彼女たちは「遊女(ゆうじょ)」と呼ばれるようになります。これはみなさんも聞き覚えがあるハズ。遊女は、港で船に乗って男を誘いました。船で川を下る相手に船で近付いていくのです。今で言う出張ヘルスのはしりでしょうか(笑)。大阪湾と淀川水系の水運で栄えた江口、神崎の遊女が有名でした。その様子は華やかだったようで、大江匡房(おおえのまさふさ)は著書「遊女記」に「(遊女たちの)声は素晴らしく、韻(しら)べは水風に漂うようである。天下第一の楽しき所である」と書いています。すぐにでもそこにイってみたくなっちゃう書き方ですね。また平安末期になると、歌舞を披露し性を売る「白拍子(しらびょうし)」が京の町に現れました。白拍子としては、妾として源義経の寵愛を受けた静御前が有名。京都の街で見初められたと言われています。
◆鎌倉・室町時代(1185年〜1573年頃) −遊女が増え取り締まり税徴収−
鎌倉、室町の両時代には、交通の便が発達。宿場町や港町の遊女が増えていきました。また遊女を専門に取り締まり税を徴収する遊女別当が幕府に置かれ、本格的な公娼制度ができることとなりました。
←
風俗日本史について講義するマンコスキー教授
(※写真はイメージです)
◆安土桃山時代(1573年頃〜1603年) −京都では念仏踊りが流行−
織田信長と豊臣秀吉の時代、安土桃山時代。この時代に入ると、遊郭が誕生します。誕生させた人物は、誰あろうなんとあの豊臣秀吉でした。天下統一を果たした秀吉が、それまでバラバラに点在していた遊女屋を一カ所に集めたのです。治安や風紀を維持するため周囲を塀や堀で囲い、徹底した管理を行ないました。集娼制度の始まりです。
遊郭は他にもくるわ、遊里、いろまち、傾城町(けいせいまち)などとも呼ばれました。遊郭が最初に置かれたのは大阪道頓堀で、次が京都柳町です。
この時期には、歌舞伎の創始者と言われる女性、出雲阿国(いずものおくに)の念仏踊りが京都で大変な人気を博しました。念仏踊りとは男装して茶屋遊びに通う伊達男を演じたもの。これをまねる遊女が多く現れ、後に遊女歌舞伎となっていきました。
◆江戸時代(1630年〜1867年) −吉原、新町、島原の三大遊郭−
徳川幕府の時代になると、ついにあの「吉原」に遊郭ができます。また大阪の遊郭は新町へ、京都の遊郭は島原へ移転させました。この三カ所は三大遊郭として栄華を誇りました。吉原に関しては明暦の大火で焼けてしまい、最終的には現在の場所へ移りました。また全国20数カ所に公認の遊廓が存在した他、非公認の「岡場所」という私娼地も存在。安さが人気で江戸後期には遊郭より栄えました。
その他にも、銭湯で体を売った「湯女(ゆな)」や、食膳を運ぶと同時に売春の交渉をする「飯盛女(めしもりおんな)」、土手などにゴザをしいて交わる「夜鷹」も登場します。湯女に関しては、宮崎駿のアニメ「千と千尋の神隠し」のモチーフとしても用いられました。
◆明治以降の近現代(1868年〜) −遊郭から赤線そしてソープランでへ−
明治時代には、いったん娼妓解放令(1872年)が出され、娼婦は自由意志で遊郭に残るか遊郭を出るかを選ぶことができました。遊郭などの売春業はすべて貸座敷業となり、座敷内における行為は娼婦の自由意志によるものとなりました。
ただし解放令当時の娼婦たちは莫大な借金を背負うなどしており、実際には遊郭を離れることができない者が多かったとされています。
遊郭は、太平洋戦争の敗戦後、1946年にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により廃止され、赤線に姿を変えます。その赤線も1958年の売春防止法の施行によって姿を消します。しかしその後、「トルコ風呂」と形を変えて生き残ります。そしてトルコ人留学生の抗議によって名称が「ソープランド」となった今も、その伝統は連綿と受け継がれています。
|1ページ|2ページ|
|
|
こんな履歴書は嫌だぁ 写真が別人・・ |
|
特集TOPページへ戻る |
|
 |
|
|